報知新聞釣り欄「魚心」から:昭和55年2月10日 二昔前の阿波のグレ釣り(2)
絶対量不足のエサ
今様浦島太郎のSさんは、次にエサの相違に目を見張った。
「へー。南極から来たエビでっか。世界もえろう狭うなったもんだんな」と感慨深げだった。
二昔前と言えば、南極はおろか国内のエサさえも今ほどの流通は見せていなかった。徳島県下のイソつりばで使われていたのは、田エビ(ブツ)か、ヨウセイエビ(シラサ)で、香川県か、岡山県まで採取しにいくのがせいぜいだった。
絶対量が不足していたため、思うように釣りに行くことができないという不思議な現象さえ起きた。
当時、生きエビの使用量は、一日約3升(5.4g)だった。この数量を確保するためには、数日前から釣具店に予約する必要があった。それでも充分に需要は満たされなかった。
こんな苦い経験もあった。このときの無念さは生涯忘れることができない。私を含めた5人の若い(当時)釣り師が牟岐大島へ行くことになった。他の4人は、うまいことエビの予約が取れて、5段カゴに納めることが出来た。だが、飛び入りの私にはエビの割り当てがなかった。
仕方なく、徳島駅で、高松からエビ採取人が帰るのを待ち受け、その足で牟岐線に乗るというキワドイ芸当をすることとなった。高松からの汽車が着いて、牟岐行きの汽車が出るまでの時間は、約10分間しかない。ところが、アテにしていた採取人が全くの不漁で帰ってきた。つまり、私はアテにしていたエビが入手できなかったのだ。
「高橋さん、そんなら、ワイらのエビを分け合って行きまひょ」jという釣り友の言葉を期待した私が甘かったのか、そういう言葉を吐かなかった釣り友どもが薄情だったのか。とにかく、私は空の五段カゴを背負って、徳島駅からトボトボと自宅への道を辿ったのである。
ーその後、琵琶湖産のエビが出回るようになって、エビの不足はかなり緩和された。さらに静岡県由比町の桜エビが新しく登場した。続いて、赤アミがニューフェースとして巾を効かせた。次は北海道の白アミだった。そして最後が南極からやって来た沖アミというわけだ。
今やエサの供給量は需要を大きく上回ると言う結構なご時世になった。沖アミになってからというものは、もうエサ不足等という不安はなくなった。価格の暴騰という恐れもなくなった。エビそのものの効果も抜群だ。今まで期待もしていなかったメジロやヒラマサまで釣れるという特典も生まれた。万事結構ずくめーーと思った矢先、青天の霹靂とも言うべき事態が発生した。「沖アミの使用禁止」という愚にも付かぬ一方的な提案だ。
ほんに世の中はままならぬーというのが20年間の推移を通しての実感だった。(この項つづく) (報知APG・高橋 康生)
筆者からひとこと: 琵琶湖産のエビが極端に不足だった昭和38年、私はそれに代わるエビをフトしたことから見つけたのです。それが、静岡県由比町の桜エビ。私は、買ったばかりのダットサン・ピックアップに、冷蔵庫(氷で冷やす旧式のもの)を積み込んで、単身、由比まで車を駆ったのです。当時、名神高速が出来たばかりとはいえ、徳島〜静岡までの運転は重圧でした。しかし、これでもし販売権を独占することが出来たら、私は紀伊国屋文左衛門の現代版になるかも知れないという夢を抱いていました。やっぱり、甘い話はないもので、1週間もしない間に、他の店に見つかってしまいました。そのとき、夜間運転していたカーラジオから、盛んに放送されていた曲は、「ポールとポーラ」だったのです。今となっては、儚い夢の象徴として懐かしさで一杯の曲でもあります。