報知新聞釣り欄「魚心」から:昭和54年7月22日 粗忽の釘

 引っ越ししてきたばかりの、そそっかしい男が、箒をかける五寸釘を壁に打ち込んだところ、その先が所もあろうに隣家の仏壇の阿弥陀さまの頭を打ち抜いてしまった。
 この男、隣家の主人のクレームで「被害状況」を見に行くのだが、
 男「おや、ご立派な仏壇がございますな」
 主「ご立派はどうでもいいが、阿弥陀さまの頭を見ておくんなさい」
 男「おお、こりゃ大きな釘だが、いったいだれが打ったんで」
 主「だれがって、お前さんが打ったのだ」
 男「これはふ都合な。私だって自分の家の掃除をしちまって、いちいち隣の仏壇にまでは箒ををかけにくるわけにゃいかねえ」
  ご存じ、江戸落語「粗忽の釘(くぎ)」のサゲである。
 この落語を聞くたびにに、思い当たることがままある。
 以前、まだ那賀川が清流だったころ、私はポイントlを求めて車を走らせていた。ちょうど向こう岸の河原から、友人が釣っているところへ行き会わせた。道は川原から五,六b高いところを走っているので、野アユの様子や、石のひかりぐあいが手に取るようにわかる。さてオトリアユなどこだろうとみていると、流心を越しているのはよいまでも、かなりの流勢に押されて、ほとんど水面近く浮き上がっているのだ。 
 「どうやねん」
 「あかん、あかん」
 「そらあかんはずや。オトリが浮いてるでェ」
 「そんなことあらへん。3号のオモリかましてるもん」

 まだある。日振島でグレを釣っていた時のことだが、朝からどうも調子がよくないので弁当を開くことにした。これは私の釣行の楽しみの一つでもあるのだが、同じ弁当を開くなら、なるべく高い所へ上がって、広大な海の景色と、澄んだ空気とを味わいながらやるのだ。
 その時、ふと眼下に目をうつした。今まで釣っていた私のマキエの行方が気になったからだ。足元のサラシ場から、まっすぐ沖へ出たマキエは、十bくらい沖から見事に、ーー信じられないくらい見事に右へ折れている。つまり、上潮と底潮が食い違っているのだ。その結果、思いがけないところでグレがエサを拾って郡遊しているのに、ウキだけは、どこまでもまっすぐ流れているわけで、これではいつまでたっても釣れるはずがない。
 「粗忽の釘」の男も、ここへくぎをうったら、まさか隣の家の仏壇の中へないるとはしらなかっただろう。
 釣りの場合も、「こうやったら、ああなる」という因果関係に案外気付かずに、一所懸命無駄な行為をしていることが多い。
 今、西日本一帯にゴマンと居着いているタカベ、、赤ジャコ、小サバなどのエサトリどもの中にエサをふりこんだとて、とても五秒と持たないだろう。それでお、五秒ごとにエサを取り替えているひともなければ、エサをつけずに釣っている賢明?なひとにお目にかかったこともない。
 もっとも神ならぬ人間の業ではとうてい海や川の中まで見透かすことは出来ないが、だからこそ、釣りにはむめがあり「男のロマン」などと言われるわけがあるのかも知れない。だが、「こうすればああなる」という因果関係をよく察知する人ほど、よくつっていることは確かだ。
 さて、あなたは粗忽の釘派?それとも理屈の釣り派?(報知PAG・高橋 康生)