報知新聞・魚心/昭和58年4月30日
身にしみた 川漁師の善意:邪魔行為とは雲泥の差
キスを釣っていた。その日のポイントはせいぜい3,40bの近距離だった。キスは面白いように仕掛けにブラ下がってくる。ーもう夢中だった。
と、一隻の小舟が海岸に平行して移動してきた。それは私たちのオモリが充分届く至近距離だった。なんとその舟は、私たちが釣っているそのポイントへ底曳き網を入れがなら移動しているのだ。日本語で言えば、これは「邪魔」という行為以外の何ものでもない。しかも、舟に乗っている夫婦者らしい二人は、尻をこちらに向け、顔は沖の方を向いたままだ。
その尻は雄弁に物語っていた。「お前たちは遊びだろう。ワシらは生活がかかっとるのや」
つい二、三日前、吉野川へハエ釣りに出かけた。前夜の雨で増水がひどかった。いつもなら、適度の早さで流れているはずの瀬が、すごい急流になっていた。マキエサが止まらなかったのか、てんでアタリがない。
そこで少し上流の舟だまりへ移動してみた。ここはいつもなら流れのないトロ場だが、この日はゆるく逆流していた。エサをまいてウキを振り込んでみたら、のっけから入れ食いになった。2,30尾も釣っただろうか。やがてそれは食い止んだ。ウキ下を変えても、ポイントをずらしてみても、ウキはピクリともしない。
ややあって、一人の老人が後ろに立った。しばらく見ていたあと、話しかけてきた。
「食わんかな」
「あきまへん。食い止みました」
「あんたの格好から見て、釈迦に説法かも知らんが、ここで釣るにはウキが大きすぎるワ。もうすこし小さくしてみたらええ」
私は思わず振り返って、そのお年寄りの顔を見てしまった。
瀬で釣っていた私は、仕掛けを変えずにそのままトロで釣っていたのだ。その言葉はまさに図星。
失礼だが、地元の人たちの仕掛けと較べた場合、私たちのそれは数等繊細なはずだ。にもかかわらずそれを指摘されたとき、私はフト小学校でならった「釈迦と羅刹」の話を思い出した。外見は悪鬼の形相をした羅刹の口から「色は匂えど散りぬるを」の名句が出たという、あの話である。
そのお年寄りが羅刹でもなく、私が釈迦でもないが、私はすぐさま助言に従った。そして、再び1時間ほど入れ食いが続いた後、竿を納めながら私はこのお年寄りに礼を言った。
「どうです。この後続いて釣ってみまへんか」と言ったら、この人は静かにこう言った。
「わしはあんたの後ろの舟のアカ掃除に来たんじゃ。そやけど、あんたの邪魔したらいかんと思うて、今まで待っとったんじゃ」
その人、川漁師さんだったのだ。しかし何というさわやかさ。前述のキス釣り舟とは雲泥の差。人の善意が身に浸みて嬉しいひとときであった。
(報知APG・高橋 康生)
筆者から一言: