報知新聞釣り欄「魚心」から:昭和55年3月9日 二昔前の阿波のグレ釣り(6)

守られていた”ランク”

 

 20年ほど前を境に、大きく変わった第三番目の項目には「ランクのくずれ」が上げられる。これは、第一項目の「釣り人の増加」に伴って自然に起きた現象と言ってしまえばそれまでだが、それにしても惜しい気がしてならない。
 ランクというのは、剣道や柔道にみられるような技術そのものの優劣を律したものではない。グレ釣りを修得するのに必要ないろいろのルールやマナーなどが、一種の不文律として確実に存在していたのだ。そして、その一つ一つを修得せずに、次の段階へ進むことは出来なかった。いやしくも、荒イソの危険(当時は現在よりも危険度が大きかった)なゲームであるグレ釣りを志す者は、少なくとも、これだけの段階を体験せよ、というのである。

 そのランクとは、まず最初が塩入川下流でのチヌ、キビレ(キチヌ)釣りだった。ここでは、満ち潮、引き潮の変化が、いかに魚の食いに微妙な変化を与えるかとか、マキエとサシエを合致させる習慣とかを覚えさせられた。釣れる魚は、さほど大物ではないので、釣れてからのことより、釣れるまでのテクニックを狙いとした。
 次のランクは、突堤に進み、さらに高度な技術を体得。掛けてから取り込むまでの技術も併せて仕込まれた。
 第三のランクは、福村や中林など、いわゆる小イソでのチヌ釣りに進む。ここでは今までの釣りの応用編の様なことを修得するわけだが、それ以外に、いよいよ荒イソへのリハーサルとして、安全対策を口やかましくたたき込まれた。これは阿波のグレ釣りの誇るべき側面でもある。
 たとえば、藁ゾウリだけは徹底して着用させられた。荷物は出来るだけ、コンパクトにすることも教えられた。冬季には、綿入れの「ハンコ」をまるでユニホームのように着ていたものだ。これは今でいうなら、防寒着と救命着を兼ねたようなもので、しかも、肩の凝らない仕立てになっていた。

 小イソでのチヌ釣りを卒業すると、次はいよいよグレ釣りに進むわけだが、それも一足飛びに牟岐大島・津島へ行くわけにはいかない。その前に、まず第四ランクともいうべき、由岐、木岐、日和佐で修行するのだ。
 そして、いよいよ最後はトップランクの牟岐大島・津島。今でこそ牟岐から大島までは船で20分だが、そのころは一時間ほどかかっていたし、その以前はさらに時間を食っていた。文字通り、阿波のグレ釣りのメッカであった。
 だが、各段階で、少なくとも一、二年終業し、遅ければ十年、早くとも五、六年かかって大島へ進む頃には、だれもが完全なイソ釣りマンとしての資格を備えていたといえる。だが、残念ながら、こんな不文律は、二昔前を境にもろくも崩れてしまったのだ。(この項、つづく)

                                                          (報知APG・高橋 康生)