報知新聞釣り欄「魚心」から:昭和55年2月3日 二昔前の阿波のグレ釣り(1)

汽車の中の釣り談義

 
 20年ぶりにSさんと会った。面影は残しているが、頭のシワや髪の白さが、見てはいけないもののように私の目に映った。何らかの理由で釣りから遠ざかっていたのだ。だが以前は毎週のように、連れ立って牟岐大島通いをした仲だった。
 「釣りを忘れたわけではおまへんのやで・・・」とSさんは言い訳をした。もともと三度のメシより好きだったはずだ。
 今、大島ではどんなグレが釣れるか。釣り方は?釣具は?
 Sさんの矢継ぎ早の質問に私はたじろいだ。まるで浦島太郎のように、昔を懐かしがり、今を知りたがった。そして話しているうちに、この20年の隔たりが、私の想像以上に大きいことを思い知らされた。
 私の話を聞いて、まずSさんは、今の釣行の手段の味気なさを指摘した。
 「昔はよろしましたなぁ。汽車の中でのんびり構えて、釣り談義に花を咲かせて、、、」
 そう言えばそうだ。いまは、2,3人のグループでック留もニノって、釣り場に向かう。だが昔は、釣り場への交通手段はすべて汽車だった。
 あまり釣り人が多いので、「釣り列車」が走ったくらいだ。汽車の中で、釣り人はチビリチビリと酒やビールを飲みながら、だんだんと自慢話をつのらせるのだ。自慢話だけではない。ときとしてはベテランの釣り談義も開かれる。そんなときには、私たち駆け出しの釣り師は食い入るように熱心に聞き入ったものだ。汽車の中は、釣り人にとっては、社交場であり、釣り教室でもあった。
 牟岐へ着くのは夜の9時頃。シーズン中であれば、下車する者の7,8割までが釣り客だ。翌日の釣りの夢と希望で一種異様な熱気が漂う。駅の外には、船頭の奥さん連中が迎えに来て、宿まで送って行く。
 更につりよどに着いてからも話は続いた。私たち若手(当時)の釣り師は、まだ休まず、近所のお好み焼き屋へシケ込んで作戦会議をしたものだ。
 床にはいるのは、大体12時を回る頃だが、それでも充分寝付けない。ウトウトしたころに
 「朝食でございます」という声に起こされる。
 さて、いよいよ大島へ向かうわけだが、こうやって書いてみるSさんの言う意味がよくわかる。
 昔は、釣りそのものへ到着するまでの楽しみが長くて大きかった。それは、「汽車」と「車」という交通機関の差、いわば大衆的な商人宿と、取り澄ました高級ホテルの差が、釣り人同士のコミュニケーションの場を少なくしたのかも知れない。
 だが、たしかに昔は気長であった。即物的ではなく、その前後の雰囲気を充分楽しんでいたようだ。(この項続く)
  (報知APG・高橋 康生)

筆者からひとこと: 今から25年前に、二昔前の原稿を書いているわけです。つまり、今から45年前、昭和35,6年の頃のことですから
まだ生まれていなかった方も大勢いらっしゃることでしょう。サオは竹、リールは木ゴマ、ウキは玉ウキ、ハリスは5号、ハリは9号。そして何より、エサは生きエサの供給が需要に追い付かず、琵琶湖産の冷凍エビが使われ始めていたときのことです。グレもたくさん釣れましたが、グレ釣りの楽しさは、今より更に大きかった気がします。